下記、江戸彫勇會 最新のコメントの遣り取りです。
過去の記事、江戸彫勇會の詳細アーカイブです。
2007/06/20 4:10 PM, 東両国 wrote:
昔の写真を伯母にもらって見てみたところ祭りの写真に川正が(川井正三郎)
お祭り好きで当時は地元東両国(現両国)では知らない人はいなかったそうであります
写真で見ると地元亀戸天神大祭に彫勇会詰所なるものを自宅に作っていたみたいです
一応ネットで検索してみたところこちらにのっていたのでお邪魔致しました
川正は兄弟の三番目で私は川正の姉(長女)の息子の孫にあたります
また私の祖父(川正の甥)もお祭り好きでした
祖父のものと思われますが納札?というのでしょうか【いせ万】とか【東都両国】とか【都会両国】とかあるのですがこれはどういったものなのですか?
現在私もお祭り愛好家であります
よろしければ川正についてご教授ください
2007/06/20 6:13 PM, 天野屋 店主 wrote:
東両国様
はじめまして。
コメントありがとうございます。この件に付きましては私では全くわからないですので、追って二代目後藤錦氏からコメントを頂けると思いますので、暫くお待ち下さい。
2007/06/21 3:18 PM, 東両国 wrote:
店主様
こちらこそありがとうございます。
どうぞ宜しくお願いいたします。
2007/07/09 11:40 AM, 天野屋 店主 wrote:
東両国様
「東両国」さんからの「川正」に関するご質問に対して血縁者である「東両国」さんを差し置いて部外者である私が回答するなんて筋違いだと思いますが私が分かる範囲でお答えします。
まず、「川正」こと川井正三郎は明治、大正そして昭和初期に納札会及び彫勇会で大活躍された人物です。
背中には「不動明王」の文身を彫り、中央に南無阿弥---と入れています。
納札の方では、大正15年6月21日に神田和泉橋倶楽部に於いて「坂東、秩父巡礼大願成就御礼」の納札会を会主として開催されておりますし、昭和3年7月21日に開催された「初代彫宇之追善 勇肌彫もの競」の納札会では東都納札会を代表して後見をされております。
納札会の会主となるにはその人物の人格は勿論のこと、大変な費用を要したといいます。明治32年の新聞に会主の苦労が記載されています。『------- -方々一時工面才覚に苦しむこと、納札の意匠より数倍なる事も稀にありといいえど、父祖伝来の江戸ッ子気質とて、かかる些事にまで、ひけを取らぬところ又愛すべし』
川井正三郎もまた江戸ッ子気質に富んだ「粋」と「洒落」に生きた人物であったであろうことは容易に想像されます。
次に「いせ万」「東都両国」「都会」についてのご質問がありますが、「これはどういったものなのですか?」と書かれているところから考えると簡潔にお答えした方がよいと思います。
納札会には大きく「巴連」「睦(ムツミ)」「「都会(ミヤコカイ)」があり、この三つの会を合わせて「東都納札会」と称しています。東都とは西の都に対しての呼称で当然のことですが「東京」を指します。
「いせ万」は本名大西浅次郎といい背中に水滸伝豪傑百八人之一、花和尚魯智深を彫り「川正」と同じく彫勇会で活躍し、納札の世界でもその右に出る者はないと云われております。誰しもが認める納札界の第一人者です。その人物像は『江戸っ子の生粋中の生粋、神田っ子の気質をその温和な容貌に調和させた、男に惚れられる男であった』という。明治7年から大正14年まで生きた人ですから「川井正三郎」とほぼ同世代ではないでしょうか。「いせ万」は酒が好きだったといいますから「川正」と酒を酌み交わしていたことでしょう。
昭和10年7月の川施餓鬼供養、「彫勇会」の故人題名に「いせ万」「川正」そして私の祖父である「後藤亀」と名前を連ねているのも何かの縁を感じます。
最後に、昭和2年の「納札題名並名簿集」に「川正」:川井巳之助 本所区相生町2-6とあるのは誰れなのか「東両国」さんに逆に教えていただきたいと思います。特に「亀戸天神大祭に彫勇会詰所」の写真は是非とも拝見させていただきたいと思います。
簡単ですがご報告させていただきます。何枚か「川正」関係の札も添付しておきました。
H19.6.23 二世 後藤錦