祭りのかけ声 ワッショイ | 18:36 |
現在、祭りでは御神輿の掛け声は「ソイヤ」です。
神田祭でも戦前までは「わっしょい」が御神輿のかけ声でした。
戦後、疎開や空襲、徴兵で人口が減り、地域住人だけでは御神輿が出せなくなり、助っ人を頼んで御神輿を出した頃から掛け声が「ソイヤ」「セイヤ」に変わっていったようです。関西弁と言う説もありますが・・・・・
以下はネットで調べた結果です。
このソイヤがアイヌ語であることを、知りました。アイヌには縞フクロウを生け贄にするお祭りがあり、
十字に組んだ材木の中心に縞フクロウの足を結わえ、材木の端を皆で担いで揺すりながら、人々に生け贄を見せ、
羽ばたきさせる、その後で、縞フクロウを殺してあの世に送るんだそうです。
アイヌ語で『揺する』ことをsoye「ソヤ」というのである。
現在の祭りの掛け声は、縞フクロウなど生け贄祭りの掛け声から来たアイヌ語であり、「ソイヤ」では実におかしいと思うのです。
ここでもう一度言霊の原点にかえり、人々に参考程度の警鐘をお知らせいたします。それは、季節を問わず日本のどこかで見られる祭りに関することです。
その祭りに定番なのが、神輿かつぎです。そして、昔から人々が力を合わせる掛け声はワッショイと相場が決まっておりました。
江戸の祭りを含め日本中の神輿かつぎの掛け声がワッショイであったにもかかわらず、昨今は、ワッショイに代わって、何故か「セイヤ、セイヤ」「スイヤ、スイヤ」。または「ソイヤ、ソイヤ」「オリャ、オリャ」「ドッコイ、ドッコイ」などが蔓延しています。これは、一体どういうことなのでしょうか。残念なことですが、今や、神田祭をはじめとする東京中の祭りは、「深川の富岡八幡」の御神輿以外は、セイヤとかソイヤの掛け声に占領され、ワッショイを耳にするのは絶望的です。
いずれにしても、ワッショイ以外の掛け声は言霊でもなければ、ことばとしての掛け声でもないのです。神輿の掛け声の変化は、実はかつぎ方の堕落と、日本の産業変化によって生じています。
さて、本題に入りますが、ワッショイは神輿かつぎの掛け声ではなく、ワッショイの「ワ」は、古代語の親しみと和(なご)むを意味する言霊です。また、自分を自称する「わ=吾」を意味し、感動を表す「わ」、歓声の「ワー」でもあります。大きな物を複数の人がいっしょになってかついで、それを他の場所に移動するとき必ずワッショイの声を出しますが(大木を移動させたり、石を動かしたり)、このときの情況は言うまでもなく、ワ(自分)の複数の団結でワ(感動)が生じてワ(歓声)になり、そして和みのワになるわけです。これらの意味を知らず、セイヤの神輿かつぎをすることは極めて低劣でしかありません。
また、何よりもワとは、五十音の最後の行である「ワ」を象徴した重要な言霊であることです。ワの言霊には、世界の平安を祈念するための意味がこめられています。そのワを背負う(ショウ=ショイ→引き受ける)は、「ア行からはじまった万世がラ行を無事はたし、最後のワの世界を成就せんと神が願う気持ちを、人も共有する」の意味が隠されています。そのための方便として、祭りではみんなが和やかな気持ちをもって掛け声を出し合います。当然ながら、セイヤとかソイヤ、スイヤではまったく用を足さないばかりか、神の経綸に具現された言霊を無視し、下劣な掛け声をこのまま続けているかぎり、当事者達の頭上には必ず100%の不運が訪れるでしょう(どんな形であろうと)。ましてや神輿の上に人が乗るなどとはとんだ無礼になります。(神輿の形自体には異論がありますが)。
「ワ」は日本と世界が待ち望む言霊です。しかし、今はまだラ行の時代で、ワは遠い先の事となるでしょう。わたしたちは、いつかその日を迎える事を願って、祭りでワッショイの掛け声を復活させ、それを皆で讃える事が急務となります。
以上、原文のままです。ご参考まで
神田祭でも戦前までは「わっしょい」が御神輿のかけ声でした。
戦後、疎開や空襲、徴兵で人口が減り、地域住人だけでは御神輿が出せなくなり、助っ人を頼んで御神輿を出した頃から掛け声が「ソイヤ」「セイヤ」に変わっていったようです。関西弁と言う説もありますが・・・・・
以下はネットで調べた結果です。
このソイヤがアイヌ語であることを、知りました。アイヌには縞フクロウを生け贄にするお祭りがあり、
十字に組んだ材木の中心に縞フクロウの足を結わえ、材木の端を皆で担いで揺すりながら、人々に生け贄を見せ、
羽ばたきさせる、その後で、縞フクロウを殺してあの世に送るんだそうです。
アイヌ語で『揺する』ことをsoye「ソヤ」というのである。
現在の祭りの掛け声は、縞フクロウなど生け贄祭りの掛け声から来たアイヌ語であり、「ソイヤ」では実におかしいと思うのです。
ここでもう一度言霊の原点にかえり、人々に参考程度の警鐘をお知らせいたします。それは、季節を問わず日本のどこかで見られる祭りに関することです。
その祭りに定番なのが、神輿かつぎです。そして、昔から人々が力を合わせる掛け声はワッショイと相場が決まっておりました。
江戸の祭りを含め日本中の神輿かつぎの掛け声がワッショイであったにもかかわらず、昨今は、ワッショイに代わって、何故か「セイヤ、セイヤ」「スイヤ、スイヤ」。または「ソイヤ、ソイヤ」「オリャ、オリャ」「ドッコイ、ドッコイ」などが蔓延しています。これは、一体どういうことなのでしょうか。残念なことですが、今や、神田祭をはじめとする東京中の祭りは、「深川の富岡八幡」の御神輿以外は、セイヤとかソイヤの掛け声に占領され、ワッショイを耳にするのは絶望的です。
いずれにしても、ワッショイ以外の掛け声は言霊でもなければ、ことばとしての掛け声でもないのです。神輿の掛け声の変化は、実はかつぎ方の堕落と、日本の産業変化によって生じています。
さて、本題に入りますが、ワッショイは神輿かつぎの掛け声ではなく、ワッショイの「ワ」は、古代語の親しみと和(なご)むを意味する言霊です。また、自分を自称する「わ=吾」を意味し、感動を表す「わ」、歓声の「ワー」でもあります。大きな物を複数の人がいっしょになってかついで、それを他の場所に移動するとき必ずワッショイの声を出しますが(大木を移動させたり、石を動かしたり)、このときの情況は言うまでもなく、ワ(自分)の複数の団結でワ(感動)が生じてワ(歓声)になり、そして和みのワになるわけです。これらの意味を知らず、セイヤの神輿かつぎをすることは極めて低劣でしかありません。
また、何よりもワとは、五十音の最後の行である「ワ」を象徴した重要な言霊であることです。ワの言霊には、世界の平安を祈念するための意味がこめられています。そのワを背負う(ショウ=ショイ→引き受ける)は、「ア行からはじまった万世がラ行を無事はたし、最後のワの世界を成就せんと神が願う気持ちを、人も共有する」の意味が隠されています。そのための方便として、祭りではみんなが和やかな気持ちをもって掛け声を出し合います。当然ながら、セイヤとかソイヤ、スイヤではまったく用を足さないばかりか、神の経綸に具現された言霊を無視し、下劣な掛け声をこのまま続けているかぎり、当事者達の頭上には必ず100%の不運が訪れるでしょう(どんな形であろうと)。ましてや神輿の上に人が乗るなどとはとんだ無礼になります。(神輿の形自体には異論がありますが)。
「ワ」は日本と世界が待ち望む言霊です。しかし、今はまだラ行の時代で、ワは遠い先の事となるでしょう。わたしたちは、いつかその日を迎える事を願って、祭りでワッショイの掛け声を復活させ、それを皆で讃える事が急務となります。
以上、原文のままです。ご参考まで