いやぁ〜粋です。格好いい!! 大震災から僅か2年足らずでもう納札が開かれていたんですね! 江戸の粋をご堪能下さい。
江戸消防彩粋會 山口政五郎氏 所蔵 無断転載を禁じます。
「江戸彫勇会」とは? 二世後藤錦氏 記
以下の文献の引用が分りやすいと思いますので記載しておきます。
「江戸彫勇会」
[文身百姿: 玉林晴朗 原本昭和十一年 昭和三十一年十月復刻版より]
江戸時代の文身会が奇巧の競争であったのに反し明治後、東京に開催された分身会は真面目な図柄を競べ合う正道の会合であった。
その中で最も大きく且つ現在迄続いて居るのは「江戸彫勇会」であって、この会は明治三十五年に神田に居た彫宇之の文身をつけて居る連中―紺三(關口亀次郎)、伊勢万(大西淺次郎)、大加女(波多野與)、大安(荒井悦三郎)、あだ豊(足立豊三郎)、竹内和吉等を始めその他にも数人が加わって「神田彫勇会」というものが創立され、その後会長の紺三が日露戦争へ出征したので一時中止されており、又明治四十年頃から再興され、明治四十五年には神田以外の人達も多数参加したので「江戸彫勇会」と改めた。
彫勇会という名も文身をして居る者は、「男の中の男と立てられる勇みの者」だからと云うので、紺三が考えた名であった。紺三というのは紺屋町三丁目の鳶頭で江戸以来、数代続いている江戸っ子のチャキチャキであり、伊勢万というのは神田多町(野菜市場)の勇みの兄哥を代表している旦那で、これも矢張り江戸っ子肌の人で其の他の連中も皆江戸っ子の気風を誇り其の伊達心を以って文身をして居る人達であって彫勇会の名の示す通りであった。
そして、この会は紺三にしろ伊勢万にしろ当時納札の方で有名な人であったので、矢張り其の方の趣味から文身をして居る連中が集まり、神仏奉拝をなし其の親睦を計らうという趣旨であった。江戸時代の文身会の様に一等二等と其の優劣により等級をつける等という事は一切しない。大正十二年頃には其の会員の数も大分増加し、其の主たる人達は次の二十五名であった。
關口亀次郎(三紋龍)・大西淺次郎(魯智深)・小泉馬之助(文覺)・鈴木福太郎(不動明王)
田中政吉(瀧夜叉姫)・栗原良之助(浪切張順)・波多野與(鬼若丸)・波多野榮次郎(風雷神)
西出福太郎(木鼠怪傳)・荒井悦三郎(姐妃のお百)・島崎佐一(多聞丸)・石原瀧三郎(般若)
島庄次郎(蛇王太郎)・荒井芳次郎(武松)・小管喜太郎(團七九郎兵衞)・後藤亀太郎(将軍太郎良門)
中村松太郎(文覺上人)・長谷川新之助(吹寄)・足立豊三郎(浪切張順)・丸山眞造(大蛇丸)
鈴木末吉(金太郎)・石井市太郎(七ツ面)・大塚一義(魯智深)・川井正三郎(不動明王)森彌三郎(牡丹唐獅子)
これらの連中は鳶の者、多町の連中、木場の若い者、船乗り、大工、左官、土木請負業、或いは商人等であって、月掛三十銭の会費で毎年夏になると王子名主の瀧とか、丸子玉川とか、海水浴場等を会場として納涼遊山を兼ねて大会を催した。
さらに又、深川八幡とか神田明神とか浅草三社等の祭礼には揃いの翁格子の半纏を着、其の半纏の左のヒカエには角切形の紋の中へ各々の文身の名を記して神輿を擔ぎに出る。祭礼の時は文身のある者に限り街中でも裸が御免故、平生見せる機会がなくてムズムズして居る連中の事とて、素裸になりこゝを先途と神輿を揉みに揉むで威勢の良い處を見せて居る。大正十三年には紺三が会長を辞し、其の引退披露が国技館で行なわれた。丁度其の時、国技館では琵琶湖の模造が出来、納涼大会を催して居たので其の池を利用して文身のある木場の連中が角乗りをして大喝采を博した。其の後を継いで会長となったのは村上八十吉であって、この人は頭の毛の中から足の指先まで文身があるので知られていた。また昭和七年九月には例のお札博士と云われるスタール博士が、紺三等を納札の方で知っていたため、是非日本の文身が見たいという希望があり、臨時に其の九月五日に本郷湯島天神町の櫻湯で彫勇会を催す事となり、四十人からの倶利伽羅紋々連が集まってスタール博士を驚かした。【参考 新聞A】其の時の連中は前の大正十二年の時とは大分変わり、七・八名以外は皆その後の会員であった。これも図柄の参考になる故記して見よう。
村上八十吉(瀧夜叉姫と相馬太郎)・鈴木福太郎(不動明王)・大久保周司(白菊丸)
石原瀧三郎(般若)・田中市太郎(金太郎)・吉田政治(牡丹唐獅子)・廣井辰次郎(小明院次郎)
廣井巳之吉(一ツ家)・徳永善男(武松)・日下部一郎(關扉)・三ツ石鉦太郎(素盞鳴尊)森川政吉(牡丹唐獅子)・飯田彌太郎(魯智深)・川田喜一(荏柄平太)・藤森玉次郎(大蛇丸)
木塚銀次郎(不動明王)・坂谷福太郎(大蛇丸)・大西銀次郎(牛若丸)・中山金太郎(奴凧)
小林淺吉(般若)・田中常吉(張順)・稲田勘次郎(般若)・水上長之助(張順)・西川宇之(阿部晴明)
小泉馬之助(文覺)・荒井悦三郎(姐妃のお百)・野田咲太郎(牡丹唐獅子)・足立豊三郎(浪切張順)・
中里信吉(羽衣)・小池榮次郎(羽衣)・藤本市太郎(鐘馗)・稲垣作次郎(金太郎)
野上幸吉(火火出見尊)・田村倉吉(不詳)・平地助右衞門(昇り龍)・宮坂次郎吉(九紋龍)
福田近一(日蓮上人)・關口亀次郎(三紋龍)・栗原良之助(浪切張順)・西出福太郎(木鼠怪傳)
【補足説明】
○彫宇之
名人中の名人と言われた彫師で明治三十五年前後から大正にかけて活躍した人物。本名を亀井宇之助といったので「彫宇之」という。天保十四年(一八四三)神田の生まれ。初期の頃の作品には「彫卯」の銘を、後のものには「彫宇之」と彫っている。
○紺三((關口亀次郎)
俳優佐野周二の父親。つまり現在の関口宏の祖父に当る人。私の祖父と仲が良く我が家に当時の写真(江ノ島で撮影)が残っております。
○伊勢万(大西淺次郎)
「いせ万」本名大西浅次郎。明治七年二月三日生まれ。神田多町二丁目の青物問屋、伊勢屋万次郎の五代目主人で、江戸っ子の生粋中の生粋、神田っ子の気質をその温和な容貌に調和させた、男に惚れられる男であったという。つねに結城の茶みじんと、唐桟縞を好み、八幡屋の煙草入れ、そして金具夏雄の一刀彫りを持ち歩き、柳橋代地のお常、浜町の堀川、白山の三日月などの遊里へ足繁く通い、粋な遊びに興じ、また芸人をこよなく愛し、講談は小柳亭、色物は白梅亭、立花亭の常連であった。また、納札千社札の蒐集では、その右に出る者はなく、その生涯に十六丁札を四回刊行した。大正十四年四月十二日、五十二歳で逝去。その墓所は芝金杉円珠寺にある。
○栗原良之助
通称「良ちゃん」。私の父の妹の亭主の兄貴にあたる人。私の学生時代にも健在でしたので記憶に良く残っています。懐の大きな大人物、これぞ明治の男だという感じです。神田明神宮鍵講として活躍。昭和四十六年二月十二日没。お寺は回向院。
○後藤亀太郎
私の祖父です。明治八年七月生まれ。彫り物は「将軍太郎良門」、彫師は「彫宇之」。良門は平将門の子、滝夜叉姫の弟。昭和九年七月二十三日没。
○福田近一(千加坊)
明治三十年九月牛込区早稲田生まれ。明治四十年、十一歳の時、品川の青物問屋へ奉公、十六歳のとき神田市場大清へ移る。大正三年「いせ万」が柳橋の高砂倶楽部での納札交換会へ参加させてくれたことで納札・千社札と出逢い、大正十四年いせ万没後「いせ万大西千載子文庫」はすべて千加坊に譲渡された。本名が近一のため神田市場の仲買の連中から「ちか坊」と呼ばれていたので、納札の題名も「千嘉坊」と名乗っていたが、昭和十年六月より「千加坊」と改名した。神田明神宮鍵講講元を長く務め、平成二年十一月七日逝去。享年九十四歳。菩提寺は妙法寺。
後藤家とは祖父(亀太郎)、父(錦司)、私と三代に亘り、私の結婚式の主賓です。日本酒が好きで、浅草「駒形」で父と飲んでいる最中に「今から来い」と電話で呼び出された事を思い出します。
○西出福太郎
現在の紺三(西出幸二氏)の実父。昭和三十二年九月から昭和四十七年九月まで第一区の総代を務め、四十四年から四十七年までは江戸消防記念会の理事長を務める。後藤錦と仲が良く、一般人が容易に海外に行けない時代にヨーロッパのモンブランの上で二人して裸になり背中の彫り物を晒している写真が残っている。昭和四十七年逝去。
○植村七之助
題名は「キ○七」(キワシチ)と読みます。明治十七年芝の生まれ。旅籠町一丁目に住んでいた際物師の七之助というのでこの題名を使っています。「キ○七」の奥さん(ふさ)の祖父は「千加坊」の若い頃の奉公先「大清」の主人です。また「キ○七」の妹(愛)は浄瑠璃流派の一つである河東節最後の家元(伊東猛二郎)に嫁いでおり、「キ○七」自身も納札にその図柄を多く残した絵師若林守拙との親交も深く明治大正昭和の時代を生きた趣味人といえる。「キ○七」の娘婿である鈴木幸光氏が納札関係の資料を譲り受けています。昭和三十九年四月逝去。
【参考A】
[お札博士と刺青の群像 昭和七年九月六日 東京朝日新聞]
◇お札博士で通っているフレデリック・スタール氏は朝鮮旅行の予定を変えて来る八日午後三時横浜出帆の日枝丸で帰米の途につく事となったが五日午後同博士を中心に「くりからもんもん」のグロ大会が開かれた。会場は本郷湯島天神下の櫻湯の銭湯の中で、刺青者ばかりの「彫勇会」から凄いのが四五十人、ぞろぞろ集まった。さすがに女の会員は顔を見せなかったがお湯屋は見物で黒山の人だかりだ。
真紅のぼたんに戯れる唐獅子、雲を望む三紋龍、さてはオカメやヒョットコがヘソの上に踊ってるユーモラスなもの、しかし何といってもピカ一は新富座の止場をやっていた七十六歳の村上八十吉さんで会長の名に背かぬ偉観だ。はげた頭の頂辺はぼたんに蝶が戯れくもが巣食い、首には連隊旗、背中は血に狂う瀧夜叉、胸は佐倉宗五郎のハリツケ、脚は昇り龍、下り龍、わき腹には父母の生首、下腹には妻と娘の生首、その他顔といわず耳たぶといわず身体いっぱいの刺青が、彫ってないのは手の平と足の裏ばかりでさすがのお札博士もウームとうなってしまった。
この爺さん台湾総督府に軍夫の百人頭で出征し、生番に生捕られて刺青されたのがもとで全身を埋めてしまったものだという。博士は一一カメラに収め刺青奇談に感激して午後五時散会したがこの種の大会は明治初年頃、六尺の下に大名行列を彫ったのが出たりなどして以来始めての事だと。
あまり長い文章になっても読みづらいと思いますので、ここらで一端筆を置きます。
納札額に書かれている人々、たとえば高橋藤・いづ赤・田ダ梅・扇令その他について何れ機会を見てお話し出来ればと思っております。これらの札は我家の居間に飾ってありますので今度一路さんと遊びにいらして下さい。
平成十八年九月十四日
二世後藤錦 記
【参考写真】
江ノ島にて